茅ヶ崎市開高健記念館のご利用案内


ページ番号 C1006249 更新日  令和6年4月27日



[画像]茅ケ崎市開高健記念館(7.0KB)
所在地

〒253-0054 茅ヶ崎市東海岸南6-6-64

電話

0467-87-0567

ファクス

0467-87-0567

開館時間

毎週、金曜日・土曜日・日曜日の3日間と祝日。
10時から18時まで(入場は17時30分まで)

休館日

毎週、月曜日から木曜日(祝日は除く)
年末年始(12月29日から1月3日)
展示替え等のため、臨時休館あり

駐車場(台数)

あり(8台)

観覧料

200円

(注)隣接する茅ヶ崎ゆかりの人物館との共通観覧料は300円

(注)18歳未満及び高校生以下は観覧料無料

企画展情報等

[画像]茅ケ崎市開高健記念館外観(35.4KB)

 「ふつう私は小説家として暮らしている。ここ五年ほどは湘南海岸の茅ヶ崎市である。海岸から三百メートルか四百メートルほどのところでひっそりと起居している。月曜日と木曜日の夕方になると二キロ離れたところにある水泳教室へ行くために外出するが、それ以外はほとんど家にたれこめたきりである」(「国境の南」から)

 作家開高健は1974(昭和49)年に茅ヶ崎市東海岸南のこの地に移り住み、亡くなるまでここを拠点に活動を展開しました。
 その業績や人となりにふれていただくことを目的に邸宅を茅ケ崎市開高健記念館として開設。書斎は往時のままに、展示コーナーでは、期間をさだめてテーマを設定し、原稿や愛用の品々を展示しています。

 これらを通じて、類い希なその足跡を多くの方々にたどっていただけるなら幸いです。

[画像]銀山平・村杉小屋にて執筆中の開高健(1970年)(56.4KB) [画像]「耳の物語」原稿写真(48.5KB) [画像]記念館庭にある「哲学者の小径」(39.0KB) [画像]湘南海岸にて(1982年)(64.8KB) [画像]釣りを楽しむ開高健(1968年頃)(51.7KB) [画像]「明日世界が滅びるとしても 今日あなたは リンゴの木を植える」開高健(38.1KB) [画像]開高健写真(1959年)(31.2KB) [画像]家族との写真(1958年)(31.8KB) [画像]ベトナム取材での開高健(1965年)(36.7KB) [画像]1964年頃(15.4KB) [画像]記念館内 書斎の壁を飾る剥製(71.0KB) [画像]自宅書斎にて(36.1KB) [画像]専用の原稿用紙と万年筆、眼鏡(138.9KB) [画像]「入ってきて人生と叫び 出ていって死と叫ぶ」開高健(27.0KB)

開高健略年譜

[画像]著書「裸の王様」(1958年)文藝春秋新社(53.9KB)

1930(昭和5)年
 12月30日、大阪市天王寺区東平野町に生まれる。

1948(昭和23)年
 旧制大阪高等学校文科甲類に入学。

1949(昭和24)年
 学制改革により、大阪市立大学法文学部法学科に入学。

1950(昭和25)年
 処女作「印象生活」を「市大文芸」に発表。
 同人誌「えんぴつ」に加入。

1951(昭和26)年
 「あかでみあ めらんこりあ」を「えんぴつ」解散記念として刊行

1952(昭和27)年
 住吉区杉本町の牧洋子の家へ移る。長女道子誕生。

1954(昭和29)年
 寿屋(現・サントリー)に入社、宣伝部員に。

1957(昭和32)年
 「パニック」を「新日本文学」に発表。一躍新人作家として注目される。

1958(昭和33)年
 「裸の王様」で第38回芥川賞を受賞。寿屋を退職、嘱託となる。杉並区矢頭町に自宅をかまえる。

1959(昭和34)年
 「日本三文オペラ」を文藝春秋新社より刊行。

[画像]著書「輝ける闇」(1968年)新潮社(48.3KB)

1960(昭和35)年
 中国訪問日本文学代表団の一員として中国を訪問。
 「ロビンソンの末裔」を中央公論社より刊行。

1961(昭和36)年
 「過去と未来の国々」を岩波書店より刊行。
 アイヒマン裁判の傍聴にイスラエルに赴く。

1964(昭和39)年
 「ずばり東京」を朝日新聞社より、「見た揺れた笑われた」を筑摩書房より刊行。
 朝日新聞社臨時海外特派員としてベトナムへ出発。

1965(昭和40)年
 戦地取材中、ベトコンに包囲されるが、死地を脱出。
 「ベトナム戦記」を朝日新聞社より刊行。

1968(昭和43)年
 「輝ける闇」を新潮社より刊行、毎日出版文化賞を受賞。

1969(昭和44)年
 ビアフラ・中東戦争を視察。

1971(昭和46)年
 「フィッシュ・オン」を朝日新聞社より刊行。

1972(昭和47)年
 「夏の闇」を新潮社より刊行、文部大臣賞を打診されたが辞退。

1974(昭和49)年
 茅ヶ崎市東海岸南に仕事場を完成し、移り住む。

1978(昭和53)年
 「ロマネ・コンティ・一九三五年」を文藝春秋より、「オーパ!」を集英社より刊行。芥川賞選考委員に加わる。

1979(昭和54)年
 「最後の晩餐」を文藝春秋より刊行。
 「玉、砕ける」で川端康成文学賞を受賞。
 南北アメリカ大陸縦断旅行。

1981(昭和56)年
 「もっと遠く!」、「もっと広く!」を朝日新聞社より刊行。
 一連のルポルタージュ文学により菊池寛賞を受賞。

1983(昭和58)年
 「オーパ、オーパ!!」を集英社より刊行。

1986(昭和61)年
 「耳の物語」を新潮社より刊行、翌年、日本文学大賞を受賞。

1989(昭和64・平成元)年
 「珠玉」第三部を脱稿、翌年文藝春秋より刊行。
 12月9日、食道腫瘍に肺炎を併発し逝く。
 北鎌倉・円覚寺松嶺院に眠る。

[画像]著書「ロマネ・コンティ・一九三五年」と(1978年)文藝春秋「珠玉」特装本(1990年)文藝春秋(40.8KB)

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文化スポーツ部 文化推進課 文化推進担当
電話:0467-81-7148


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