国木田 独歩


ページ番号 C1028278 更新日  令和5年3月31日


国木田 独歩(くにきだ どっぽ)

 南湖院の名を一躍高めたのは国木田独歩(1871〜1908)の入院でした。
 独歩が入院したのは1908(明治41)年2月4日。病状はかなり進行しており、多くの文学者が独歩を見舞いました。その一人、真山青果(まやませいか)は田山花袋(たやまかたい)のすすめで独歩の「病床録」を編むこととなり、その記事は『読売新聞』に連載され、南湖院の存在が多くの人に認知されることになりました。
 独歩のわがままと癇癪(かんしゃく)持ちはだれもが認めるところで、それは家族や友人たちに対してだけではなく、南湖院の職員に対しても向けられました。院長の高田畊安は呼吸器を安静にするために、なるべく声を出さないように注意しましたが、それも守らず、来訪者との談話など、数間離れた病室でもはっきり聞き取れたといいます。
 6月になると、喀血(かっけつ)がみられるようになり、23日夜、「大量の喀血と同時に何の苦悶もなくして独歩国木田哲夫氏の玉の緒は永劫に絶え果てたので何の処置を施す暇も無かった」(南湖院副長・中村愛子医師)という最期を迎えました。

参考文献

茅ヶ崎市史ブックレット9『近代茅ヶ崎の群像』
『茅ヶ崎を彩った70人』(64ページ)


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