萬 鉄五郎


ページ番号 C1028279 更新日  令和5年3月31日


萬 鉄五郎(よろず てつごろう)

 萬鉄五郎(1885〜1927)は、晩年を茅ヶ崎で過ごした洋画家です。萬は、キュビズムと呼ばれる現代画の日本における代表的な画家ですが、茅ヶ崎では日本画も描き、代表作である《水着姿》は、西洋と日本の要素が融合した傑作と言われています。
 萬は、1885(明治18)年11月17日、岩手県東和賀郡十二ケ村(現、花巻市東和町土沢)に父八十次郎、母ナカの長男(9人兄弟)として生まれました。
 萬と絵との出会いは、14歳のころ日本画を独習したことでした。16歳のころには、大下藤次郎『水彩画之栞』(新声社、1901年)を読んで水彩画を始めました。1903年3月に上京、1905年に本郷区菊坂町にあった白馬会第二洋画研究所に通い、油絵に出会いました。
 1907(明治40)年9月、東京美術学校西洋画科本科に入学しました。美術学校における萬の作品は百点以上が現存しています。1909(明治42)年春、浜田よ志と結婚、1912(明治45)年3月東京美術学校を卒業しました。
 1918(大正7)年、過労と睡眠不足から神経衰弱気味となり、肺結核に罹っていることが分かったので、1919(大正8)年3月に療養のため茅ヶ崎に転居し、半年後に家族を呼び寄せて、現在の南湖の天王山木村別荘(あるいは天王山)に居住しました。髭が生えていて丸顔なので、付近の人々から、親しみをこめてオエベス様(恵比寿様)と呼ばれていたと言われています。
 萬は、南湖院の病棟や別荘の洋館が見える茅ヶ崎の海岸風景に詩情を感じたと語っています。田舎と都会、伝統と近代が併存する「湘南」の風景に惹かれていたようです。
 茅ヶ崎の海岸をモチーフとした傑作に、《南湖院》・《地震の印象》・《水着姿》などがあります。
 1927(昭和2)年5月、茅ヶ崎の自宅で亡くなりました。41歳でした。
 詳しくは、市史ブックレット3『萬鉄五郎と茅ヶ崎の風景』をご覧ください。

参考文献

茅ヶ崎市史ブックレット3『萬鉄五郎と茅ヶ崎の風景』
『茅ヶ崎を彩った70人』(51ページ)


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