ページ番号 C1028335 更新日 令和5年3月31日
伊藤里之助は、長年にわたり茅ヶ崎村長・町長を務め、明治・大正期における茅ヶ崎の地域開発に大きな役割を果たしました。
里之助は1864(元治元)年に、茅ヶ崎村最大の地主で代々名主を務めた旧家に生まれました。1894(明治27)年から茅ヶ崎村長、また1908年からは、茅ヶ崎村・松林村・鶴嶺村の合併により誕生した茅ヶ崎町の初代町長となり、合併した3村の融和に努めるなど10年余にわたって町政を担いました。
地域開発の方面では、まず、茅ヶ崎村長時代に茅ヶ崎停車場設置運動の中心となったことがあげられます。湘南地域を東海道線が開通していましたが、当時の茅ヶ崎地域には停車場(駅)がなく、藤沢か平塚に出向かなければ鉄道を利用できませんでした。里之助は山宮藤吉鶴嶺村長とともに停車場の設置願書を起草し、また茅ヶ崎は別荘地に好適地であるとの理由を示しながら伊藤博文に陳情したとも言われています。こうした運動の結果、1898年に茅ヶ崎停車場が開設されました。その後も里之助は茅ヶ崎町長時代にかけて、別荘誘致、海水浴場設置、道路網整備など地域開発に尽力しました。
里之助は地域の事業活動にも積極的に関わりました。1911年には茅ヶ崎電灯株式会社を設立し、同社により町の電灯は大きく普及しました。また、相模川流域地帯を東海道線・中央線と結びつけることや相模川の砂利の運搬を目的に、茅ケ崎駅と横浜鉄道橋本駅を結ぶ鉄道(現在のJR相模線)を計画し、1917(大正6)年に相模鉄道株式会社を創設しました。同年に誕生した大規模製糸工場茅ヶ崎純水館に関しても、工場敷地取得斡旋の役割を果たしていました。さらに、芝居の興業、演奏会や映画上映をおこなった株式会社茅ヶ崎座の設立(1922年)にも発起人として名を連ねています。
里之助は、関東大震災翌年の1924年3月2日に死去しました。
茅ヶ崎市史ブックレット9『近代茅ヶ崎の群像』(9〜10ページ)
『茅ヶ崎を彩った70人』(25ページ)
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